57577 Bad Request

故障中のエレベーターで旅をする

旅情生活者

時どき私はそんな路を歩きながら、不圖ふと、其處が京都ではなくて京都から何百里も離れた仙臺とか長崎とか――そのやうなまちへ今自分が來てゐるのだ――といふ錯覺を起さうと努める。私は、出來ることなら京都から逃出して誰一人だれひとり知らないやうな市へ行つてしまひたかつた。

(「檸檬梶井基次郎

 

われわれの心に旅情をもたらすのは、必ずしも旅の経験だけではない。旅情と無縁なまま終える旅もあれば、日常の隙間からふいに匂いたつ旅情もあるだろう。
旅情があらわれる契機として、距離感の失調というのが考えられるかもしれない。旅先では、目の前にあって手で触れられるものが同時に遠く遥かなものでもある。私は体を日常の場から大きく移動させながら、その体は日常のしるしを眼鏡の傷や下着のぬくもりのように持ち歩いているのだ。そのずれから旅情が生まれるのだとすれば、同じようなことは日常に身を置いたままでも起きるだろう。
毎日のように通り抜ける仕事場近くの路地で、手前のアパートに隠れて目立たぬ奥に立つ住宅の壁に気づいたとき、ふとかき立てられる旅情がある。その場合すぐには思い出せなくても、たとえば外壁の褪せたような藤色が子供の頃時々遊んだ友達の家とよく似ていたのかもしれない。そこへたどり着く私道をみつければ、今すぐ間近に立ち手で触れられるその壁が、名前さえ曖昧にしか思い出せない幼友達の家と一瞬一致してしまうこと。一致してしまったがゆえに、ふたたび正しくずれて距離の彼方にかえる数十年前の家を起点として、現在の私がその風圧を受けとめて寄る辺ない「旅先」へと送り込まれる。
そのような意味で、生活はたぶん日に何度も小さな旅のよろめきを経験している。人生を旅程にたとえるような大ぶりな物語に気を取られると、この"瞬間の旅情"は姿を隠すのかもしれない。