57577 Bad Request

故障中のエレベーターで旅をする

輪郭

私たちは、ある国に住むのではない。ある国語に住むのだ。祖国とは、国語だ。それ以外の何ものでもない。

(『告白と呪詛』シオラン 出口裕弘訳)

 

地図とは、空気も脂肪も注入することなくわれわれを膨らませるもっとも効率的な装置だろう。地図が読めるようになることは、膨らみすぎて人生や社会からはみ出した場所から地上を眺めた経験をもつということだ。膨らみかた次第ではわたしの輪郭が国境の輪郭をのみこんでしまうけれど、そのことはけっしてわたしを国境から自由にはしない。人生や社会の外、さらにおそらくは地球の外でさえわたしを囚え続けるものがあることの承認を迫られる。さまざまな境界線はわれわれの脳に刻まれた消えない傷の模様の地上への投影であり、同じ傷を紙の上に投げかけたものが地図だとすれば、傷と紙の距離や角度を狂わせ、紙の上で傷を増殖させたところに書物の起原を想像してみるのもいいかもしれない。もちろん短歌にも「地図だったときの痕跡」があるはずだ。

わたしのいない文章

すれ違う列車に俳句が書いてある むこうもこっちを読み上げている/高柳蕗子

『かばん』2020年7月号

 

この世には無数の列車があるが、人を乗せている列車はその中のほんの一握りで、さらにそのうちの一本だけがわたしを乗せている列車だ。
そこまで話を絞り込んでも、わたしについてまだ何も語ったことにならないどころか、話の入口にさえ立てていない気がする。
きっとわたしを乗せている列車は、最後までわたしをひと言も説明しないだろう。わたしのほうが列車を説明する文章の中の一文字になる可能性が、わずかに残されているだけだ。
一文字としてそこに組み込まれているわたしは、文章の全体を読むことができない。
わたしに読むことができるのは、わたしがそこにいない文章だけである。

どきどきさせる

君のかばんはいつでも無意味にちいさすぎ たまにでかすぎ どきどきさせる/宇都宮敦

『ピクニック』

 

 「ちいさすぎ」ることと「でかすぎ」ることのあいだで「君のかばん」が拍動している。四句までかけて示されたその拍動が、結句で話者に「どきどきさせる」といわせているのだが、この歌の心臓である「君のかばん」の拍動つまり収縮と弛緩のうち収縮、すなわち心臓が「ちいさ」くなることで血液を送り出すうごきにここでは「無意味に」と添えられ、この拍動によって歌が生かされるリズムが話者によって自らの感情のうごきのよろこばしさとして引き取られるとき、歌はこの「無意味」さを一首をかけて全身でよろこぶために生まれた生き物のようだ。
人間と歌はどちらも言葉でできている。歌に誰かがいるようにみえ、その誰かに命があるようにみえるなら、理由はただそのことに尽きているのだと思う。

答えはない漂うだけでいいのだと五月の紙がペラペラ喋る/盛田志保子

「旅」

https://utatopolska.com/entry/ss-tabi/

 

紙がペラペラで薄いことも、その紙がペラペラとめくれることも、誰が知っているのかというと、紙が知っているのだ。だからペラペラというオノマトペは、あっさりと紙が喋る音へと裏がえる。歌ではいつも誰かがうたっているか、かたっているが、そこで声が「私」の話など始めたとすれば、それはそういう「お話」として聞いておけばいいけれど、真面目な話、そこでうたっているのもかたっているのも、じっさいのところはいつも「紙」なのだ。そんな身も蓋もない話は冗談めかして口にするしかない。オノマトペが裏がえる勢いにまかせ、風と紙がこすれる音がそう聞こえているふりをして。