57577 Bad Request

故障中のエレベーターで旅をする

螺旋

巻貝を何個もひろっていらっしゃい それがわたしのやさしさだから/正岡豊

「四白集」

https://drive.google.com/file/d/1_rv5D5b8XURscW82tWp03B0q8QnGHc8C/view

 

二階にいると二枚貝のことを思い出してしまう。
できの悪い連想だとわかっているが、三階へ行くことは三枚貝を思い出しそうになる。もちろんそんな貝のことは思い出せない。ありもしない貝を一からあたらしく頭に描き出そうとする抵抗を感じて、そこでぴたりと足が止まってしまう。
だからわたしが行けるのは二階まで。
それ以上の高さの階は、空想上の生き物のように手足の届かないまぼろしの階だ。
昨日までわたしはそう思っていた。

この建物(南国の白い小さな、個人経営のホテルを思い浮かべてほしい)の中心をやや奥に外れたところを、縦にくり抜いた筒状の空間が通っている。そこに竜巻を凍らせたようなうつくしい真珠色の階段があった。
わたしは階段を見上げ、なるほどと思った。螺旋の螺とは巻貝のことではなかっただろうか。
三枚貝も四枚貝も見つけられずに終わる世界に、わたしたちは巻貝を持っていたということ。
それだけでもう、すべて許されてしまっていいのではないのかと思う。

みんな、気持の中で作り上げている、
フォード・ムスタング語。
そして、バン! プラタナスを抱き締める。
左に”ムス"、右に"タング"。
左と、右。

(「フォード・ムスタング」セルジュ・ゲンスブール 鳥取絹子訳)

 

世界に、ある名前が誕生する。人間の名前でもウィルスの名前でも、自動車、スーパーマーケット、昆虫、法律、サボテン、星、交差点、なんでもいい。全世界はその瞬間、みずからに加えられたその新しい名前のうちに飲み込まれる。一瞬のことだ。そしてたちまち吐き出される、果実を味わったのち口に残った種のように。
過去とは、この種のごときものが敷き詰められた地面である。かつて全世界だったことがあるものたちの無数のむくろ。世界に新顔が、地に降りそそぐ雨のように際限なく訪れ続けていることを思えば、それらの地位はみな瞬間の天下だったことは言を俟たないだろう。

地を覆う種のうちたまたま目についたひと粒を拾い上げ、それのために偽の玉座を用意するこころみが、短歌にはあるかもしれない。
かつて全世界だったという一瞬の記憶を種から引き出すこと、あるいは引き出したかのように思い込ませることにかけて、短歌という詩形には無視できない才能が備わっている。この才能に祝福されて輝く顔と呪われて翳る顔は、それぞれこの世のまるで別な方角を向いているかもしれないが、面立ちは双子のように瓜二つのはずである。

早送りの現実

天気がよかったので散歩しようと思った。そう思ってほんの二歩あるきだしたばかりだというのに、もう墓地に来ていた。いくつもの人工的な道が、歩きにくそうにくねくねとうねっている。そんな道の一つを彼は渓流下りでもするようにポッカリ浮かんで滑っていった。遠くに掘り返したばかりの墓が見えた。その墓のそばまで行ったら停止しようと思った。どうしてかその墓が気になってならない。

(「夢」フランツ・カフカ 池内紀訳)

 

われわれがふだん現実と呼んでいるものも夢の一種というか、同じ材料でつくられたそのもう半分だと思うけれど、世の現状のごときはその意味でことさら悪夢の様相を呈しているのでもなければ、まどろみが破られたり、夢がとうとう覚めかけているのでもない。まさに夢の夢らしさそのものが淡々と展開している。ただこの場所でふだんみられる景色より幾分材質そのものが主張をつよめているために、その上を覆うべき「現実」らしさの装いが破綻して感じられるのだろう。
われわれが夢と現実を区別できるのは、両者の速度に差があるからである。どちらも言葉を材料としているけれど、夢の言葉は速く、現実の言葉は遅い。いいかえれば、現実とは夢をスロー再生したものであり、夢とは現実を早送りしたものである。集団が経験するものと個人が経験するもののスケールの差がそこにはある。この落差に投げ込まれたり放り出されたりすることで、われわれは夢と現実の往還という認識をえている。
この言葉の世界の外で起きている変化――それを言葉は感染症パンデミックと呼ぶかもしれない――の影響により、集団が人の一生をはるかに超える長さでみている(がゆえに夢とは気づかない)夢の速度が一時的にくずれ、一人が一夜のうちに経験するあのめまぐるしい横滑りのような光景があらわれている。海のむこうでなにやら奇病が流行しているという噂が流れ、ほどなくこの国の海上で豪華客船内にその奇病が蔓延、閉じ込められた乗客たちが退屈しのぎに毎日ショーを見続けているというニュースにふれることになる。ここで話が終わるのがわたしの知る現実であり、そうであれば「夢っぽい現実」の珍しさの範疇だが、やがて子供のときテレビで見ていた人気コメディアンがいちはやく罹患したことをメディアが報じ、数日後にはあっけなく訃報が伝えられると、その背後で日常が雪崩をうって流動化し、繁華街からは人が消え、空気は日ごとに不穏さを増していくことだろう。こういう夢なら、われわれはたしかに今までいくらでもみてきたはずだ。そしてみたことをその都度忘れていちいち思い出せないほど、これは見慣れたありきたりな光景なのだが、少なくとも瞼の外でそれをみつめるのは、この国の多数者にとって初めての経験になる。

小さな箱

建物があれば野原とは呼べなくなってしまうので野原管理者という仕事は消えてしまうのだ。だからぼくたちは地面に直接腰かけたり寝そべったりする生活に耐えなければならなかった。

「野原ひろがりセンター」我妻俊樹

 

これからは野原とそこに落ちる影のことだけを、言葉にして、その言葉を踏んで暮らしていきたい。言葉はそれ以上下に落ちないために、橋のように、空間に架けられているのかもしれない。どこにも野原など見当たらなかった。それは言葉の上にだけに見晴らせる風景だった。やめよう、足を止めるのは。歩き続けていると、鳥や魚がわたしの影をよこぎるのがわかる。石ころや枯れ草が影にこすれて音をたてた。風は吹いていないのに、旗があんなにひろがっているのは、なんだか苦しいね。空に貼りつけられてしまった旗の話。あそこまで行けばきみは引き返すことになる、この世界は、思いのほか小さな箱に収められている。