57577 Bad Request

故障中のエレベーターで旅をする

早送りの現実

天気がよかったので散歩しようと思った。そう思ってほんの二歩あるきだしたばかりだというのに、もう墓地に来ていた。いくつもの人工的な道が、歩きにくそうにくねくねとうねっている。そんな道の一つを彼は渓流下りでもするようにポッカリ浮かんで滑っていった。遠くに掘り返したばかりの墓が見えた。その墓のそばまで行ったら停止しようと思った。どうしてかその墓が気になってならない。

(「夢」フランツ・カフカ 池内紀訳)

 

われわれがふだん現実と呼んでいるものも夢の一種というか、同じ材料でつくられたそのもう半分だと思うけれど、世の現状のごときはその意味でことさら悪夢の様相を呈しているのでもなければ、まどろみが破られたり、夢がとうとう覚めかけているのでもない。まさに夢の夢らしさそのものが淡々と展開している。ただこの場所でふだんみられる景色より幾分材質そのものが主張をつよめているために、その上を覆うべき「現実」らしさの装いが破綻して感じられるのだろう。
われわれが夢と現実を区別できるのは、両者の速度に差があるからである。どちらも言葉を材料としているけれど、夢の言葉は速く、現実の言葉は遅い。いいかえれば、現実とは夢をスロー再生したものであり、夢とは現実を早送りしたものである。集団が経験するものと個人が経験するもののスケールの差がそこにはある。この落差に投げ込まれたり放り出されたりすることで、われわれは夢と現実の往還という認識をえている。
この言葉の世界の外で起きている変化――それを言葉は感染症パンデミックと呼ぶかもしれない――の影響により、集団が人の一生をはるかに超える長さでみている(がゆえに夢とは気づかない)夢の速度が一時的にくずれ、一人が一夜のうちに経験するあのめまぐるしい横滑りのような光景があらわれている。海のむこうでなにやら奇病が流行しているという噂が流れ、ほどなくこの国の海上で豪華客船内にその奇病が蔓延、閉じ込められた乗客たちが退屈しのぎに毎日ショーを見続けているというニュースにふれることになる。ここで話が終わるのがわたしの知る現実であり、そうであれば「夢っぽい現実」の珍しさの範疇だが、やがて子供のときテレビで見ていた人気コメディアンがいちはやく罹患したことをメディアが報じ、数日後にはあっけなく訃報が伝えられると、その背後で日常が雪崩をうって流動化し、繁華街からは人が消え、空気は日ごとに不穏さを増していくことだろう。こういう夢なら、われわれはたしかに今までいくらでもみてきたはずだ。そしてみたことをその都度忘れていちいち思い出せないほど、これは見慣れたありきたりな光景なのだが、少なくとも瞼の外でそれをみつめるのは、この国の多数者にとって初めての経験になる。