57577 Bad Request

故障中のエレベーターで旅をする

避難訓練

わたしたちの避難訓練は動物園のなかで手ぶらで待ち合わせること/平岡直子

「光と、ひかりの届く先」

 

今年負った傷が口をきくのは今から十年先のことだ。われわれが今年負った傷の話をしているとき、今年の傷にことよせて十年前の傷が口をきいている。 
避難訓練をするのは、訓練としてくりかえされる避難のうちに、じっさいの避難を飲み込むためだろう。つまり来たるべき災禍を訓練としていくらか日常に先取りしておくことによって、その災禍のさなかに日常をしのびこませるという取引きである。日常の中に予防医学的に散りばめようとするささやかな被災は、これから来るだろう大きな被災への準備であると同時に、かつてあった大きな被災のもたらした傷への反復強迫的な態度でもある。われわれは過去に負った傷と未来に負う傷の間の、奇妙に何もない場所につねに生きている。今年負った傷が口をききはじめるのは十年先のことだ。生まれてまもないこの傷は、今は意味を何ひとつ理解しないまま、過去からきこえてくる声をその湿った傷口に受けとめ続けている。

歌、階段

キャラメルが窓辺で姿かえている東階段室におります/東直子

『春原さんのリコーダー』

 

たとえば梯子とくらべてみれば階段は、私たちが上下の移動をするときの(猿だった時代へと心許なく手をさしのばすような)非日常的なうごきを抑え、二足で地面を水平に移動するという慣れ親しんだ動作の中に溶け込ませているといえる。
樹上を生活の場とすることを放棄するかわりに、生活の場に特化した「樹」をわざわざ一から高く組み上げるという倒錯にふけるにあたって、不用意に猿の記憶がよみがえらぬよう二足歩行の原則のうちに上下移動の問題を処理した仕組みが、階段なのだということ。
だとすれば、階段にはどこか「歌」と似たところがあるのではないかと思う。言葉を綯い合わせて現実をわざわざ一から作り直し、一生をそこに暮らすという倒錯にふけるわれわれが、その現実が猿の世界へと崩れ落ちる危険をなだめながら鳴きかわすために「歌」という形式が必要とされている。つまり短歌を含むそれらの「歌」は樹上の空間へと響かせるべき鳴き声を、言葉で二足歩行するなじみのうごきのうちに溶け込ませたものだといえるだろう。

一首に詠み込まれるどんな「穴」よりも、短歌にあらわれる階段には深々と底のみえない穴が口を覗かせているように感じられる。垂直に立つシルエットにもかかわらず短歌ではじつは言葉が斜めにうごいているのだということを、そのうごきと同じ方向につらぬいてみせることで階段が証明しているのだ。たとえば掲出歌では、その階段が「階段室」という垂直方向にひろがる空間に収められることでより短歌との相似をみせつけ、しかもそれが「東階段室」であることが作者の筆名とのあいだでかすかに誤読(「東」直子が「階段室におります」……)の道筋をつけるとともに、階段と短歌と歌人との相似という越境的なめまいへと読み手を差し向けているだろう。
「キャラメル」という溶けやすいもののかたわらに置かれた言葉がその性質に感染する、というそれなりに詩的なめまいの効果を踏み外し、次々と文の底が抜けて繋がっていきながら最後までどこにもたどり着けず、冒頭へと、あるいは一首の任意のどこかへとその都度ランダムに連れもどされる。この奇妙に無愛想な迷路のような歌の表情は、人の世界で短歌に期待されている穏当な〈怪談〉的な役割さえも、斜めに逃れているのかもしれない。

歯医者を増やせ

彼女の車は、西のほうに曲がると見えなくなった。ぼくはコーヒーカップを持ち上げちびりと飲むと、カップを置いた。テーブルには勘定書が置いてあった。一ドル八五セント。二ドル持っているから、チップと込みでどうにか間に合うな。でも、歯医者の治療費をこの先どうするかは、これはまた別の問題だ。

(「ジゴロのカップル」チャールズ・ブコウスキー 山西治男訳)

 

歯に何か問題をかかえると、歯医者のことが気になり出す。すると世の中にはこんなに歯のことを気にしている人がいたのかというほど、歯医者の看板が目に飛び込んでくるようになる。
ちょっと外を歩くたびに新しい歯医者がみつかるが、それはべつに歩くたびに歯医者が増えているわけではなく、わたしがこれまでの人生で無視してきた歯医者たちをひとつずつ、順番に心に招き入れているからだ。とても同時には受け入れられないだけの数の歯科医院が町にはすでに配置されている。コンビニよりずっと多いのではないか? 人々はコンビニへ行くような気軽さでたまたま目に入った歯科のドアをくぐり、そこにはコンビニの棚を埋めつくす商品の数ほど、わたしの歯をよりよく改善すべき理由が用意されているのだろう。
人として絶対に必要であって、生きるためになくてはならないもの。そんなものばかり厳選して買われていたら店はどんどん潰れて更地になっていくが、絶対に必要というわけではないものも買い続けているうちに、いずれその何割かが生きるための必需品に変わるだろう。だから今の日本でさえ昨日更地になった店よりも、昨日店になった更地のほうが依然として多いはずである。あるいは更地になった店のほうは、その商品ごとコンビニの棚の一角へとまとめて引っ越してきているのかもしれない。
歯医者は本来は、つまりわれわれの欲望の筋としてはもはやそうなるべきなのに、いまだコンビニの一部になるには社会的に厄介な問題をいくつも抱えている存在である。だから棚から締め出されて町に散らばりそこかしこと勢いよく増え続けることをやめられない。本当はコンビニの棚に並ぶべきものなら、コンビニの数より多いのも当然の話だ。ビタミン剤とプロテイン飲料のすきまに手をのばし、そこそこ優秀で安価な歯科医たちのどれにしようかと効能を一つずつたしかめる日は、おそらくコンビニの寿命の日よりずっと早く来ることになる。可能かどうかではなく、そうでなくてはならないほど、われわれが口の中にかかえる問題の数は、更地に歯医者を配置する速度では追いつけないものになりつつある。

リンチは決して天才的な映画作家ではなく、むしろ、その初期から長い時間かけて徐々に、自身の欲望に対して「厳密に忠実な」作品の有り様を追求しつづけ、少しずつそれを実現しつつあるような作家だと思われる(初期の『エレファント・マン』や『デューン 砂の惑星』などは、退屈だと思う)。

(『世界へと滲み出す脳』古谷利裕)

 

年金がもらえないきみと、年金が払えないぼくが同じ川を別々な橋で渡っている。この方角は一致しているのだろうか。ぼくの歩みに寄り添うのはひどく速度を落とした古い電車で、お客は一人も乗っていないけど、座席はさまざまな花を咲かせた植木鉢で埋まっている。きみの渡る橋にはところどころ椅子があって、小犬を連れたご御婦人ばかりが座っているね。話しかけると同じ声で「どういたしまして」とこたえる御婦人方は、眼鏡にひびが入っていること以外は平凡で、微笑ましい存在感をともしている。
川の流れる音は、巻き戻されるビデオテープの音だ。川面に映るのは大急ぎで過去に引き返していくぼくらの姿。ではこうしよう、ぼくたちは同じ映画の裏と表から見た同じ登場人物だけど、光のあたる角度によって人の考えはこんなに違うということを証明し続けている、映像なんだ。人間の頭の中は、ぶしつけに覗く他人がいるかぎりその人にとって実験映像だから、覗かれるのが嫌なら穴より大きい物語でふさぐしかない。物語があれば、川をじっと見ているとやがて橋の方がうごき出すみたいに、物語が止まり、映画が逆流しはじめる瞬間がある。橋の上で立ち止まっている人にとって、欄干の外にはいつでも無限に思える川幅の流れがある。世界のすべてがいっせいに色褪せていけるだけの、向こう岸のみえないビデオテープの幅が。