57577 Bad Request

故障中のエレベーターで旅をする

戦争

カリガリといい、ユビュといい、これら無意味な人物の名前は、いずれも時代精神と不可分のものであり、戦争や独裁政治の世紀を背景として、はじめて一つの意味をおびてくるようなネガティヴな名なのである。

(「カリガリ博士あるいは精神分析のイロニー」澁澤龍彦

 

人がたくさん死ぬ映画の中で、死体も、死ぬところも、生きているところさえ映らない無数の人々がいる。その場合、映画の中で生かせず、殺せなかった分を、映画は現実から借りているのだと思う。私ももちろん借りられているうちの一人だ。私が生きていることも、死ぬことも、人がたくさん死ぬ映画へと貸し出されている。人がたくさん死ぬわけではない映画も、そこには描かれないたくさんの生と死が(我々の住む世界と同じように)前提にされている以上、私の生と死が貸し出されているのに変わりはない。だから存在するほとんどの映画に私の生死は透明なフッテージのように挿し挟まれているが、人があからさまに大量に死ぬ映画、ことに近未来の地球的規模の大量死を描いた映画には、編集でカットされてしまった出演シーンのように、私の前借りされた死体が画面の外によこたわっていることが理屈の上でより鮮やかに納得できるけれど、その分、理屈っぽい死体になっているのかもしれない。