57577 Bad Request

故障中のエレベーターで旅をする

人間の本性

性教育の先生だって犬だった。お尻のまわりの毛を赤く染めた犬や性器を充血させた犬、お尻とお尻をくっつけた犬のカップル、牝犬にすげなくあしらわれてしょげ返った牡犬等を目撃して私たちは不思議な感動を覚えた。

(「犬よ!犬よ!」松浦理英子

 

動物に芸を仕込んだりしつけるときに、その動物のもともとの性質にないことを一から教え込むことはできない。いわば動物が生まれ持つ本性にしたがったおこないを、人間が見て(人間の世界における)意味があるかのように根気よく調整してやる、というのがわれわれにできることのすべてだろう。
つまり、人間がみずからの言葉でつくり出した世界の中で、ある動物の本性にもとづく行動が特定の人間的意味(おじぎをしている、トイレで用を足している、主人を目的地へ運んでいる、等)を保ち続けるように仕向けること。それが可能な程度にはもとより人間と近しい動物をえらびとって、我々はペットにしたり、家畜にしたり、見世物にしたりしているのである。

ところで、人間が動物に芸を仕込めることは、そもそも人間が人間に芸を仕込んでいることの副産物、おまけのような現象ではないか?
当然ながら、人間にも他の動物と同様に動物としての本性が備わっているはずだ。ゆえにそこから外れた芸を仕込んだり、しつけをすることは不可能だと考えられる。
だがわれわれは「人間という動物の本性」をどうしても自分たちでは見つけられないか、何がわれわれの本性かについての見解が人間どうしで必ず食い違ってしまう。おそらく人間自身の本性とは、人間のつくった言葉では語れない、語ることを許されていない部類のものなのだろう。
われわれが様々な動物を手なずけずにいられないのは、人間に手なずけられるほど性質が人間に近いかれらを通じて、このうすぼやけた鏡を覗き込もうという悪あがきなのかもしれない。かつて自らを人間という主人公に据えた舞台が開幕するにあたり、われわれは一匹の猿の姿を見失ったのである。