57577 Bad Request

故障中のエレベーターで旅をする

ハリボテの頭

山越えの右と左に幼な妻/小池正博

『句集 水牛の余波』

 

川柳にはシンメトリックなところがあるような気がする。つまり人間のシルエットにたとえるなら、川柳は右や左への体の傾きがあまり感じられないのだ。印象の話に過ぎないし、俳句には明るくないから短歌との比較になるけれど、短歌はどちらかといえば体の傾きによってシルエットが生きた人間のものであることを強調する、ようなところがある。そのさいもっとも饒舌な部位は「頭」ということになるだろう。人体の傾き加減は、全身の大きな身振りがなくともちょっとした首のかしげ方、顔の角度などで強調されるからだ。
つまり短歌は「頭」の傾きで何かを語る詩形であり、川柳には傾けるべき「頭」の存在が薄いか、感じられない。この違いは、本来そこにあるべき「頭」を定型のみじかさゆえに川柳が収め損ねている、と取れなくもないが、むしろ短歌が日本語に本来ないはずの「頭」を(川柳よりも少し長い)定型の余りをつかって捏造しているのではないかと思う。傾けるべき「頭」を持たない川柳の、グロテスクといえるかもしれないシルエットこそが日本語の正体であり、短歌はにせものの「頭」をいただきこれ見よがしに傾けることでその正体を隠蔽、あたかも欧米水準の「人間」がいるかに見せかけまんまと近代文学に成り上がったのではないか、という説である。
このジャンルが長年親しくする天皇制との相似を感じさせる「ハリボテの頭」がはたして取り除かれるべきものか、そんなことが可能はともかく、「頭」の自然な存在感を歌人はもう少し疑ってみてもいいと思うし、そのとき川柳が鏡のように日本語としてのわれわれに多くの示唆を与えてくれるはずだ。