57577 Bad Request

故障中のエレベーターで旅をする

庭のある言葉

主庭は庭の中でも一番楽しみの多い部分で、一般には面積も他の部分より広いから、芝生、植込み、花壇、池などいろいろなものが作れます。

(『小住宅の庭』吉田徳治)

 

とてもみじかい映画みたいな、他人の人生の挿話のような庭のある家に住みたいと思う。戸建てではなく、古いアパートの庭がいいかもしれない。庭で他の住人に会っても、気づかぬふりして各々が勝手に育てている花や野菜の手入れにかまけている。腕をひろげ地面に貼りつくパジャマは二階の人の飛ばされた洗濯物か。近くに背丈を少し超えるくらいの椿の木があるから、枝に引っかけておいてやろう。それにしてもいい天気だな、と足跡みたいな雲によこぎられてる空を見上げ歩いていくと、思いのほか深い水たまりを踏んづけたようだ。最近雨なんて降ったっけ、と驚き足元を見ると、誰かがいつのまにか掘ったひょうたん池にサンダルの足が水没している。あわてて飛び退いたけど、さいわい犠牲になった金魚はいなかったようだ。あそこで肩を震わせてる後ろ姿が犯人か? 私はことさら大きな鼻歌とともに彼女の金魚たちに別れを告げると、先に進む。裏木戸が見えてきた。もうすぐ庭ともお別れだ。

短歌は余白を読むものだ、というのはこの詩形のまわりに発生する素朴な実感に近いけれど、あるいは余白というよりも、短歌を読むとは「庭」を読むことなのではないか。
土地はつねに建物よりも広く、そこに庭がつくられる余地がある。短歌の定型が、音数さえ合えばあらゆる言葉を受け入れることができるのは、定型はつねに言葉より広いからではないかと思う。つまり短歌には「庭」がつくられる余地がある。建物ほどの実用性と無縁な短歌の言葉は、ただその土地に庭をつくるために建てられた、住むのには向かない偽物の家なのかもしれない。