57577 Bad Request

故障中のエレベーターで旅をする

韻律起承転結説

散らばりしぎんなんを見し かちかちとわれは犬齒の鳴るをしづめし/葛原妙子

『原牛』

 

もう少しましな、というか正確な名前がないかと思っているけれど、私の持論に「韻律起承転結説」というのがある。短歌が一首のうちに特定の子音や母音を何度もくりかえすことはよくあるが、その場合くりかえされる音がつくりだすリズムが一種の起承転結をつくる傾向がみられる、という説である。
ある音が一首の冒頭近くに少し間を置きながらくりかえしあらわれ、半ばあたりにさしかかってふと消えたかと思うと、末尾近くでふたたび姿をあらわし今度はたてつづけに響いたのち一首が閉じられる、というのがその典型的なリズムである。
たとえば、ここに引いた葛原の歌の中には「し」の音が五度響いている。初句で「散らばりし」、二句で「ぎんなんを見し」とそれぞれの句の末尾に印象深く響いた「し」が三句「かちかちと」からは消え、四句の末尾近くに「われは犬齒の」の「齒」の字に隠れながらもどってきたかと思うと、結句「鳴るをしづめし」で一首の終わりに畳みかけるように二度響いて歌が閉じられる。
このようにリズムに起承転結を聞き取ることができるのだが、さらにここでは一字空けののちに置かれた三句の「かちかち」という印象的な反復のオノマトペが、一首の冒頭の音「散=ち」に半分予告されていたことや、起承転結を刻む「し」とこの「ち」がともに〈i〉をわかちあっていることにより、一首がいわば冒頭の「ち」から末尾の「し」へとゆるやかに渡されていくグラデーションであることもまたみてとることができるだろう。
歌ではさまざまなことが同時に起きている。意味と韻律の層それぞれに読みとられるべきできごとがあるのみならず、韻律にかぎっても一首中いくつものことが並行して起きている。そのすべてを指摘することは誰にも不可能だが、一首のあきらかな有限性が同じ文字列の上に何度も視線を折り返させることで、その不可能さが際立つのだと云える。あらゆる短歌は短歌であるとともに、たんなる日本語の文字列としても読めてしまうし、そうでなければ短歌として成立しない。このことにはじつは一首を呑み込んでしまうほどの深い裂け目がはしっているのではないか。歌を読むことは、地層のように歌の複数の層がくりかえしあらわれるその裂け目へと、足を踏み外す経験でもあるのかもしれない。