57577 Bad Request

故障中のエレベーターで旅をする

短歌には上下がある

宝箱みたことないからみつけたら青空のした釘付けになるかも/谷川由里子

「ドゥ・ドゥ・ドゥ」

https://utatopolska.com/entry/tanka-du-du-du/

 

短歌には上句があって下句がある。〈五七五〉と〈七七〉という異なるフォルムをもつ両者がそこでかわしている声を聞くというのは、一首をつらぬいているひとつの声のなかに、上句と下句に分裂して会話をはじめるものたちの気配を聞き取り、耳を澄ませることかもしれない。
たとえばここに掲げた一首は、意味の上ではひとつづきの文として上句から下句へなめらかにつながっている。下句のはじまりに「青空」が置かれることで景色がぱっとひらけるような意外性も、あくまでそのひとすじの発話の中に回収されることで印象が静かに深められていくといえるだろう。

だが、短歌には上下がある。天地があるということのみならず、上半身と下半身があるという話にもとどまらず、まるで歪んだ鏡を挟んで立つどちらが実像ともつかない二つの私、のようなものが上下に分かれて視線をかわしている、あるいは視線をすれ違わせているとでもいうべき状態だ。
掲出した歌に目をもどせば、上句の冒頭に置かれている「宝箱」と、下句の冒頭にある「青空」というふたつの名詞が、それぞれ「宝」と「空」、「箱」と「青」のあいだで裏返るように韻を踏んでいることに気づかされる。そこから上下句をそれぞれ読み進めれば、上句の「みた」に対して下句は「した」で応じ、上句が「みつけ」と口にすれば下句は「釘付け」とこたえている。
またそれと順番は前後するが、上句の「ないから」が「な●か●」のみ聞き取られたかのごとく下句に「なるかも」としてくり返されているように見えることも無視できない。だとすれば、「青空」が「宝箱」に反転していたことをなぞるかのように、上句の「ないからみつけ」が下句「(く)ぎづけ(に)なるかも」へと"裏返りながら韻を踏んでいる"ことをここでは読みとるべきかもしれない。

これらにみられる、偶然と呼ぶにはあきらかに不自然な質と量の、だが作為ととるには一首をつらぬく声にごく自然に溶け込んでもみえる上と下の呼応ぶりを、いったんは読み過ごすこと。定型のもたらす心地よい揺れの上で声がさしだす心象の景色のうちを、かすかな違和感をおぼえつつも立ち止まるにはいたらず、そのまま通り抜けてしまうことになんら不都合はないといえる。
やがて細部の記憶が薄れるにしたがい、「青空」や「宝箱」のイメージ(そこに比喩が手放した「釘」のイメージも加わるかもしれない)がなしくずしに一首の印象を占める前に、喉につかえる違和感をよすがにふたたび歌の前に引き返してくる読み手がいたとき、その者の足の裏が、一首に微妙な間隔でおとずれる地形の反復にようやく気づきはじめる……。
たとえば、短歌を読むというのはそのような経験なのだと思う。
このとき読者を現場に呼びもどすのは歌が読者を誘う声ではなく、歌が他ならぬ歌自身とかわしている秘かな囁きへの気懸かりである。