57577 Bad Request

故障中のエレベーターで旅をする

摩擦とめざめ

車掌と運転手は、自分たちにもわけがわからない、バスが勝手に走っているのだと、いきどおる乗客たちをなだめようとしました。

(「トロリーバス75番」ジャンニ・ロダーリ 内田洋子訳)

 

いわゆる「結末から書きはじめる」ような小説に、短歌は似ているだろうか。あらかじめ用意されたフォルムに収めていくように言葉を斡旋する、という短歌のしくみが、何の計算もなしに無意識に語らせるような瞬間の訪れを難しくしているのだろうか。
必ずしもそうではなく、短歌にもまた小説と同じように「結末から書きはじめた」ようにみえるものもあれば、「結末を知らずに書かれた」ようにみえるものもあると思う。
短歌が定型に言葉を収めていくものなら、歌はつねに「結末から書きはじめた」ような顔つきになるはずだ。だが、ときに短歌の定型は言葉の中を通り抜ける。およそ五七五七七のリズムを刻む定型にくぐり抜けられていくとき、言葉はその摩擦によって熱をおびた部分に、帳尻を合わせるようにシンタックスをめざめさせていく。その結果みずからが口にした言葉にとまどい、あるいは気づいてさえいないような表情の歌がうまれるだろう。
歌をつくる意識が言葉と定型のどちらを自身と同一視するかで、一首の顔つきは大きく変わる。ほとんどの歌は「私は言葉である」という顔をしている。言葉である私は、定型という運命へのみがまえを何らかのかたちで歌に残してしまうはずだ。
そのしるしがどこにもみあたらないとき、われわれは「定型である私」としての数少ない作者の存在にふれているのである。