57577 Bad Request

故障中のエレベーターで旅をする

短歌目線

車と催眠術のつもりの対等な排気筒です、の中世界中/飯塚距離

「MY WOLF END」

 

わたしは自動車の免許を持っていないから、自動車目線でこの世をみたことがない。
わたしは短歌をつくるから、短歌目線でこの世をみているところがいくらかはある。短歌を運転することでこの世が「定型の沿道の眺め」にみえてくるのが歌人の病だとすれば、その「この世」の意味が車の運転における公道の網目にかぎりなく近い人もいれば、公道から隔絶して環状をなすサーキットの設備に近い人もいるだろう。あるいはカーナビの画面やゲームの筐体に展かれていく現実を模した光の道のめまぐるしさや、印刷され手に取られた地図、あるいは歌をはしらせる環境を自分の夢で固めそれを「この世」とする人もいるだろうか。
郊外をはしらせれば郊外の景色が歌にうつり、街であれば街の景色がうつるという幅の中で歌を知る者は、その地平を異国へひろげるなり、しかるべき問題意識を刺激する現場へハンドルを切れば歌の自由が行使されたと感じるはずだ。あえて日常にとどまることも、想像力で大気圏外へ脱出することも同じ地平の豊かさの正当な謳歌となる。
だが、この地平とは短歌のことではない。自動車免許を持たないわたしにいわせれば、歌とは自動車のようなものである。けれど誰かにアクセルを踏まれてうごきだすまでは影も形もない自動車である歌は、そのときはじめて自らがさまようべき「この世」の存在をタイヤの摩擦や空気の抵抗として気づきはじめる。はしりだした車は、ある人からは視界の外へ消えたとうつるだろう。その視界を決める多数決がひとまず、われわれを「短歌の地平」に繋ぎとめ安心させている。