57577 Bad Request

故障中のエレベーターで旅をする

月光酔い

右目から月までの距離を求めよミクロン以下は切り捨てとする/二階堂奥歯

『八本脚の蝶』

 

ええそうなんです、おまわりさん。あんまりいい月がかかってたものだからうっかり散歩に出てしまって。気をつけなきゃいけないことは承知でした。私には、やっぱりこんな月夜に家を出ていったきりの兄がいるんですよ。なのに私ときたら……兄ですか? たいがい月にでも迷い込んだんでしょう。あんな大きな月が出てたら、自分が地球とどっちにいるのか、わからなくなるのも無理ない話ですから。
だからってべつに兄に会いたいとか、そういう気持ちで出歩いてたんじゃないんです。ただ窓の外に目をやると、県営団地の上に月がかかってて、それが袋から取り出したざらめ煎餅みたいに見えて、思わず手を伸ばしたら窓から転げ落ちてしまったと。ええ、だから裸足なんですよ、靴をなくしたわけじゃありません。酔っ払ってなんかいませんて、落ちたときに膝をえらく打ちましてね、それでふらついてるんです。
でもまあ、月光酔いというんですか? それならちょっとはあるかもしれません。おまわりさんだってそうでしょう? 顔がすっかり黄色くて、目鼻もちっともわかんないくらいですからね。
私のほうがもっと黄色いですか? かもしれませんねえ、おまわりさん。あなたの背丈も、体つきも、か細い声まで私にはなんだかなつかしくてね。これはいよいよ、そういうことかなと思いながら、どうにも近すぎる地平線をみてたら息も苦しくなってきた。この黄色いのっぺらぼうの下で私は、ずっとおかしくて笑いが止まらないんですよ……。