57577 Bad Request

故障中のエレベーターで旅をする

ニセモノたち

部屋に現れたのは、自分だ。でも、ちょっと顔が違う。目が少し吊っているし、顎も少し尖っているようだ。そんな少しずつの違いだが、明らかに自分ではない。似ているだけに薄気味悪い。そんな贋の自分が、我がもの顔で部屋にのさばっている。

プリオン的」朱雀門

 

ニセモノとホンモノの関係には二種類しかない。つまり「後から来た方がニセモノ」か「後から来た方がホンモノ」か、そのいずれかである。
ホンモノが栄えていた正しい世界に、後から侵入してきたニセモノが我が物顔でのさばり、嘆かわしいことにホンモノが片隅に追いやられていくのだという物語。
あるいは、ニセモノがのさばっていた間違った世界に、待望されていたホンモノがついに訪れてニセモノは駆逐され、世界は正しさを回復していくのだという物語。
当然のことながら、わたしたちは自分をホンモノの側にあると信じている。それは何か有力な証拠があっての自信ではなく、逆にニセモノ/ホンモノという区分で後者を根拠づけているのがわたしたちの「自分」のほうであるから、上記二つの物語のいずれが選ばれるかは、自分がそこに先に居た者か、後から来た者かで決まることになるだろう。
その問答無用な決定ぶりと、決定の無根拠ぶりとがわたしたちを時に雲を踏むような心地にさせる。不安をなだめるため「実はわたしのほうこそニセモノなのでは?」とせめて嘯いてみせるものの、わたしたちがニセモノである可能性はあらかじめ断たれているのだ。そもそもニセモノという名指しは「わたし(たち)ではないもの」といった程度の意味しか持たないはずだから、自分をそう匂わせることには言葉の戯れ以上の効果はない。
この世界にはわたしたちとそれ以外しかいない、ということの果てしない言い換えが世界を垂直に貫いている。自分をホンモノ扱いして些かも疑わないことが不誠実や不遜なのではない。ここでわたしたちが飽きもせず演じ続けているのは、もっと根深い茶番なのである。