57577 Bad Request

故障中のエレベーターで旅をする

歌、階段

キャラメルが窓辺で姿かえている東階段室におります/東直子

『春原さんのリコーダー』

 

たとえば梯子とくらべてみれば階段は、私たちが上下の移動をするときの(猿だった時代へと心許なく手をさしのばすような)非日常的なうごきを抑え、二足で地面を水平に移動するという慣れ親しんだ動作の中に溶け込ませているといえる。
樹上を生活の場とすることを放棄するかわりに、生活の場に特化した「樹」をわざわざ一から高く組み上げるという倒錯にふけるにあたって、不用意に猿の記憶がよみがえらぬよう二足歩行の原則のうちに上下移動の問題を処理した仕組みが、階段なのだということ。
だとすれば、階段にはどこか「歌」と似たところがあるのではないかと思う。言葉を綯い合わせて現実をわざわざ一から作り直し、一生をそこに暮らすという倒錯にふけるわれわれが、その現実が猿の世界へと崩れ落ちる危険をなだめながら鳴きかわすために「歌」という形式が必要とされている。つまり短歌を含むそれらの「歌」は樹上の空間へと響かせるべき鳴き声を、言葉で二足歩行するなじみのうごきのうちに溶け込ませたものだといえるだろう。

一首に詠み込まれるどんな「穴」よりも、短歌にあらわれる階段には深々と底のみえない穴が口を覗かせているように感じられる。垂直に立つシルエットにもかかわらず短歌ではじつは言葉が斜めにうごいているのだということを、そのうごきと同じ方向につらぬいてみせることで階段が証明しているのだ。たとえば掲出歌では、その階段が「階段室」という垂直方向にひろがる空間に収められることでより短歌との相似をみせつけ、しかもそれが「東階段室」であることが作者の筆名とのあいだでかすかに誤読(「東」直子が「階段室におります」……)の道筋をつけるとともに、階段と短歌と歌人との相似という越境的なめまいへと読み手を差し向けているだろう。
「キャラメル」という溶けやすいもののかたわらに置かれた言葉がその性質に感染する、というそれなりに詩的なめまいの効果を踏み外し、次々と文の底が抜けて繋がっていきながら最後までどこにもたどり着けず、冒頭へと、あるいは一首の任意のどこかへとその都度ランダムに連れもどされる。この奇妙に無愛想な迷路のような歌の表情は、人の世界で短歌に期待されている穏当な〈怪談〉的な役割さえも、斜めに逃れているのかもしれない。